『枕草子』の文➀定子から参籠中の清少納言へ

【章段紹介】(第225段)
清少納言が清水寺に参籠していた時、定子からわざわざ使いをたてて手紙が届けられました。それは、赤らんだ唐の紙に草仮名で書かれた手紙で、「山近き入相の鐘の声ごとに恋ふる心のかずは知るらむ」という和歌と、清少納言の帰参を心待ちにする言葉が書かれていました。
清少納言は定子への手紙に相応しい紙を持たずに出かけていたので、紫色の蓮の花びらに返事を書いて差し上げました。
【内容解説】
清水寺への参詣
平安時代中期は度々の疫病や飢饉を背景に末法思想が広まり、人々は神仏に救いを求めて寺社に参詣しました。極楽往生を願う阿弥陀仏はもちろんですが、現生利益を叶えてくれる観音菩薩に祈るため、人々はこぞって京内外の寺に出掛けました。
当時の三大観音菩薩として人気だったのが、清水寺の十一面千手観音、石山寺の如意輪観音、長谷寺の十一面観音です。なかでも清水寺は京内にある寺として特に多くの参詣者を集めていました。東山の麓にある山近き寺で、現在も京都を代表する観光地ですが、清少納言もよく訪れていたようで、『枕草子』に何度も登場します。また、同時代の女性作家では、和泉式部や菅原孝標女も清水寺に詣でたことを書き残しています。
手紙に込めた特別な思い
清少納言が里下がりした際に定子が手紙を届けたことは他にもありますが、ここでは参籠中の清少納言に、わざわざ使者を立ててよこしています。その手紙が唐紙という高級紙に書かれていたことからも、定子が清少納言を思う特別な気持ちが感じられます。
手紙の文面には清少納言の帰参を待ちわびる定子の和歌が書かれていました。歌には、東山近くの清水寺から聞こえる入相の鐘の音が鳴るたびに、おまえを恋しく思う私の心の数は分かっているのだろうか、とあり、さらに歌に続けて、「それなのに、随分と長く寺に居るのね」と添え書きがありました。
これがいつ頃の話なのかは不明なので、定子の居場所は分かりませんが、京内なら清水寺からそう遠くはありません。それでも清少納言に一刻も早く帰って来てほしいと望む定子の気持ちが詠まれていることから、これは実家の中関白家が没落した後に彼女の周辺が寂しくなった後年の事ではないかと推測されています。
定子の文の趣向
さて、定子が手紙に込めた思いを、さらにその趣向から読み解いてみましょう。まず、唐の紙は赤みを帯びたものを用いています。それは、定子の歌に入相の鐘が詠まれていることから、夕暮れの空の色にちなんだものという見方もできます。では、草仮名の字形で書いたのはなぜなのでしょうか。草仮名は本字である漢字の原型に近い表記です。漢文表記で書かれているものは、その時、清少納言が寺で読んでいる経典です。つまり、定子は手紙を経典に似せて送ったのではないでしょうか。
ちなみに写経には茶色の用紙がよく用いられるということなので、定子が選んだ赤みを帯びた紙は、茶色がかった紙の色を意味していたと考えてみます。そうすると、定子は紙と文字の形態を経典に擬えた文を贈り、参籠中の清少納言の気を惹いたことになります。自分の置かれた状況が辛くても、いや、むしろ辛いほど、様々な趣向に込めて相手への思いを伝えているのが定子の手紙です。
蓮の花びらの返信
定子の思いを込めた凝った趣向の手紙に対して、それに応えるきちんとした用紙は清少納言の手元にありませんでした。急に思い立った参詣で、定子から手紙が届くとは考えていなかったのでしょう。そこで、清少納言は定子への返事を紫色の蓮の花びらに書いたとあります。現代では不思議に思うかもしれませんが、花びらに歌を書いて贈る例は、『うつほ物語』では桜の花、『枕草子』でも山吹の花など、古典文学には時々見える風雅な手紙の趣向です。
しかし、実際の蓮の花の表面は墨を弾くので、墨で書くのは難しいのではないでしょうか。そこで、寺に参籠していた清少納言の身近にあったものとして、仏教儀式の散華に用いる造花の花弁が思いつきます。散華はおそらく和紙でできていたと思われ、その大きさも和歌を書くのに適当です。何より経典に似せた定子の手紙の返事として相応しいと思われます。清少納言が返した歌は本文に記されていませんが、返歌して直ぐに定子のもとに戻ったことでしょう。