定子の遺した子供たち~Part1敦康親王
皇后定子は一条天皇との間に三人の御子を儲けて亡くなりました。遺された子供たちはどんな人生を歩んだのでしょうか。大河ドラマで皇位継承をめぐって注目されたのが敦康親王です。
一条天皇の第一皇子として誕生した敦康親王は、母定子が亡くなった後、しばらくは定子の妹に養育されていました。妹は道隆の四女で、一条天皇が皇子に会いに通っているうちに寵愛を受けますが、間もなく、天皇の子を身籠ったまま亡くなってしまいます。
敦康親王は一時は叔父隆家の邸に移りますが、その後、道長の土御門邸に引き取られ、彰子の養子として育てられることになります。これは彰子に皇子が生まれなかった時のために、皇子を手中に入れておこうという道長の策略によるものでした。
しかし、彰子に皇子が生まれると、道長は自分の孫を皇太子に据える策を進め、敦康親王は皇位継承者から外されることになります。一条天皇は敦康親王に皇位を継がせたかったのですが、道長の命を受けた行成に説き伏せられてしまったのです。
『栄華物語』には、敦康親王は学才があり思慮も深く、一条天皇が特に可愛がっていたと書かれています。養母となった彰子にも可愛がられ、皆に認められる皇子だったからこそ、道長が警戒したのではないでしょうか。
その後、敦康親王には経済的な面での特権は与えられますが、内裏を出されて道長所有の二条邸に移り、15歳で具平親王の娘と結婚して、20歳で亡くなってしまいます。
ところで、道長の息子頼通の時代に、平安文学史上有名な物語合という文学競技を催した六条斎院と呼ばれる皇女がいますが、彼女の母は敦康親王の一人娘の嫄子(もとこ)女王でした。
敦康親王が亡くなった後、頼通が嫄子女王を養女にして後朱雀天皇(彰子の産んだ第三皇子)の中宮に入れ、二人の皇女が生まれました。そのうち妹の媒子(みわこ)内親王が賀茂斎院になり、後に曾祖父具平親王の六条邸に住んだので六条斎院と呼ばれたのです。
彼女は斎院に和歌文学の一大サロンを営み、たくさんの才気あふれた女房たちが集いました。そこで行われた六条斎院物語合とは、女房たちが創作した物語の登場人物の和歌を出し合って競う高度な催しでした。
その中には『堤中納言物語』に入っている物語も含まれていたという注目すべき催しです。姉の祐子(すけこ)内親王の方も歌合を盛んに催していました。敦康親王の孫にあたる2人の皇女が中関白家の文才を引き継ぎ、文学史上に足跡を残したことになります。