紫式部の誕生~清少納言と比較して
大河でまひろは彰子の女房として仕えることになりましたね。
来週はいよいよ紫式部の誕生です。といっても最初は藤式部という呼称でした。女房名は基本的に家の苗字と親族の男性の官職名から名付けられるので、藤原の藤と父為時の官職だった式部丞の式部を組み合わせたものです。それが後に『源氏物語』作者として、紫式部に変わったと考えられています。
さて、紫式部がお邸に上がった当初、多くの女房たちに冷たくされました。左大臣道長の家に仕える女房たちは、だいたい身分が高くプライドも高い女性たちだったので、道長にスカウトされた中流階級の物語作者に対する警戒心が強かったのです。
居心地の悪さに辟易した紫式部は、邸に上がって早々に退出し、実家に半年ほど籠ってしまいました。気を取り直して再び出仕した際は、何も知らない馬鹿のふりをして、周囲から睨まれないようやり過ごしたと『紫式部日記』に書いています。
これに比べると清少納言の出仕はとてもスムーズで、最初こそ緊張していましたが、数カ月で慣れてきたと『枕草子』に書かれています。この違いには後宮主人である定子と彰子の違いも関係していると思います。
清少納言が仕えた時、中宮定子は17歳、彰子も16歳くらいで年齢的には大差がないのですが、才気煥発な母親に育てられ中関白家の中心で自ら積極的に行動していた定子と、上流階級の姫君だった母親に大切に育てられ権力者の父の下で自分を押し殺していた彰子とは、育ちも性格も正反対のようです。
自分より10歳程年上の賢い女房に対しても、臆することなくリードできるのが定子で、つつましく教えを乞うのが彰子という対照的な姿が想像できます。彰子のもとでは紫式部は自分の立ち位置を自ら作る必要がありましたが、賢い彼女のことですから、なんとかうまくいって、彰子とも心を通わせられるようになります。
それでも『紫式部日記』では、皇子が生まれてますます沸き立つ道長家を見て、一層深まる自分の憂いを告白しています。栄華の最中で自分を見失わない紫式部は、やはり一筋縄ではいかない『源氏物語』作者なのだと思います。