『源氏物語』の文➁六条御息所の巻文

光源氏の父桐壺帝が崩御して兄朱雀帝の世になってから、光源氏は不遇の時代を迎えます。官職の昇進は滞り、藤壺が出家するという失意の中、朱雀帝の妃になる予定だった朧月夜の君との密会が発覚し、自ら須磨に退去することを決意します。
紫の上を京に残し、わずかな従者と赴いた鄙の地での暮らしは、光源氏にとって初めて味わう寂しい日々でした。そんな彼の心の支えとなったのは、京の女君たちとの文通です。
紫の上はもちろん、藤壺や朧月夜、そして六条御息所にも文を書き、彼女たちからも返事が届きました。御息所とは葵上が亡くなって以来、交流が途絶えていたのですが、光源氏の状況の変化によって、長い交際相手としてお互いを気遣う気持ちが蘇りました。六条御息所の文について、原文では次のように書かれています。
浅からぬことども書きたまへり。言の葉、筆づかひなどは、人よりことになまめかしく、いたり深う見えたり。(深い心のこもった言葉がたくさん書いてあった。その言葉遣いや筆跡などは、誰よりも優美で教養の深さが窺えた。)
その文には、光源氏の境遇を思いやり慰める言葉と次の和歌が書いてありました。
うきめ刈る伊勢をの海人を思ひやれ藻塩垂るてふ須磨の浦にて
(つらい日々を送る伊勢の私を思いやってください。在原行平が「藻塩たれつつわぶ:涙を流して悲しんでいる」と詠った須磨の浦で)
伊勢島や潮干の潟にあさりてもいふかひなきはわが身なりけり
(伊勢島の干潟で貝をあさっても、言う甲斐のないのは私の身の上でした)
御息所の歌は、光源氏との関係に苦しんだ身の上を嘆くものでした。和歌を2首連作するのは、1首では書ききれない強い思いがあるためで、遺書などによく見られる形とされています。『源氏物語』では、自らの死を悟った柏木が女三宮に宛てた文や、浮舟が宇治川に身投げする前に詠んた歌に見られます。
文にはさらに多くの言葉が書き連ねられ、「ものをあはれと思しけるままに、うち置きうち置き書きたまへる」とあって、御息所が悩みながら時間をかけて書いたことがわかります。紙が文字でいっぱいになると継ぎ足し継ぎ足しして書いた文は、「白き唐の紙四五枚ばかりを巻き続けて」という形で光源氏に贈られました。 四五枚の紙を巻き続けて書く文とはどんな形態なのでしょうか。
通常は紙を折りたたむのですが、枚数が多くて折りにくいために紙を巻いてまとめたと考えられます。女君たちと離れて暮らす光源氏に宛てて書いたからこそ、ずっと抱えてきた思いが次々と六条御息所の心中にあふれ出てきたのでしょう。これが六条御息所が光源氏に宛てた最後の文となりました。