推しの扉

定子の遺した子供たち~Part2脩子内親王

Miyako

皇后定子は一条天皇との間に2人の皇女たちを儲けていますが、そのうち定子が自らの命と引き替えに生み残した第二皇女媄子内親王は、わずか九歳で亡くなってしまいました。

もう1人の皇女、一条天皇の第一子である脩子内親王は、三人の子供たちの中で最も長生きした人です。

脩子内親王は、父天皇が崩御して四十九日の法要が終わった後に叔父隆家の邸宅に移ります。この時16歳だった彼女が道長の庇護を受けることを拒んだようで、道長はそれを不快に思ったと、実資の『小右記』に記されています。

そして18歳の時、母定子と最後に暮らした三条宮に入ります。ところで『更級日記』には、上総国から上京した孝標女の家の隣に竹三条と呼ばれる邸宅があり、そこに仕える女房から物語を入手したとありますが、それが脩子内親王の住む家でした。

その時、脩子内親王は25歳、文学に親しみながら暮らしていた様子が推し量られます。ところが、その4年後に彼女は突然出家して周囲を驚かせました。

『栄花物語』には、脩子内親王の信仰心がとても深く、学才も格別に優れていて漢文の経文もすべて読んでいたことが書かれています。中関白家の漢才の血筋をしっかり受け継いでいたのですね。

また、彼女は伯父伊周の娘延子の面倒をみていたのですが、その娘は後に後朱雀天皇(中宮彰子の産んだ第三皇子)に入内して女御となりました。延子は書と琴が得意だったようで、それは脩子内親王の教育によるのでしょう。

脩子内親王の人生を辿っていくと、彼女は皇后定子の娘として、中関白家の子孫としての自負を持ち続けていたのではないかと思います。その後も歌合せなどの文学的催しを主催して過ごし、54歳の生涯を終えました。

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  1. hime

    脩子内親王様について書いてくださり、ありがとうございます。
    隣に、孝標女の家があったなんて!
    脩子内親王様が中関白家の血筋を受けついていらしたことも、嬉しいです。
    伊周様の娘延子様の面倒を見ていられたのですね。

    たくさん知らないことを教えてくださるので、ここで紹介してくださるのは
    嬉しいです。

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      Miyako

      承認遅れてごめんなさい。最近、投稿もサボっているのですが、大河も終わって、また気持ちを新たにして書こうと思いますので、今後ともよろしくお願いします。

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平安文学と出会ってその世界に魅了され、読み続けています。1000年前に確かに生きていた人の息遣いを感じると心が震えます。自然や人を深く愛した日本文化を大切に、そして一緒に楽しみましょう!
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